鬼平21世紀江戸市中見廻り写真


第10回 日本橋川

「大川の隠居」で,病み上がりの平蔵が左馬之助とともに役宅から日本橋川沿いに日本橋小網町まで歩き,思案橋のたもとにある船宿〔加賀屋〕で舟に乗り,今度は舟で三ツ俣を経て大川を遡って両国橋まで行くシーンがあります. 今回はその道筋に沿って役宅から三ツ俣を経て新大橋まで歩きます.
 清水門外の役宅を出発し,雉子橋を経て,右手に一ツ橋を見て進むと,次に神田橋が見えます.神田橋と云えば「剣客商売」の方が関係が深いかもしれません.秋山大治郎は神田橋門内の田沼意次の屋敷[1]に指南役として出稽古に通っていました.
 現在の神田橋は,そんな古いものには見えないのですが,1925年のもの[2]




神田橋の下流側左岸は鎌倉河岸[3]と呼ばれる荷揚げ場,すなわち流通拠点で,江戸で最も繁華な場所の一つだったようです. 平蔵配下の密偵粂八は,深川の船宿〔鶴屋〕の亭主におさまる前は,鎌倉河岸でそこに集まってくる人相手に,みそおでんの屋台店をやっていました. 現在,川岸はビルの敷地になっています. 川に最も近い通りはオフィス街で,私が訪れた日曜日は静寂の空間でした.




さらに下って,常盤橋からみた一石橋[4].歌川広重の江戸名所百景「八ツ見の橋」[5]には風光明媚な場所として橋から見た景色が描かれています.画面右前景に柳が垂れ,燕が飛んでいます.常盤橋から見たこの写真も,かろうじて画面右側が鬱蒼とした木立のようになりました.




日本橋の観光客の雑踏,江戸橋の昭和通りの喧噪を経て,思案橋跡に到着. 静かなオフィス街です.




船宿〔加賀屋〕があった思案橋たもとには,中央区のコミュニティー・サイクルがありました. 地元住民,あるいは観光客とおぼしき人たち数人が次々と現れ,ここで自転車を借り,どこかへ出かけて行くのを目撃しました.公共交通サービスとしての船宿を,ある意味で継承しているのかと思いました. 写真の人は,スマホで借出し手続きをしているところ.




鎧橋から見た思案橋跡.画面中央やや右の護岸に緑が垂れかかっている所が思案橋跡の公園. 鎧橋が掛けられたのは明治5年で,それ以前は渡し船「鎧の渡し」がありました[6]




加賀屋から大川へ出るには,日本橋川を行徳河岸まで下り,そこで左折します.首都高速と同じ経路です. 写真は行徳河岸.昔は首都高速の下が水面で,舟が行き交っていたと想像すれば良い筈.




行徳河岸から亀島川の霊岸橋の方角を望む.亀島川入り口に水門が設置されています.




箱崎の交差点.行徳河岸-三ツ俣-中洲-新大橋の水路は,鬼平犯科帳の中で,平蔵も盗賊たちも,何度も繰り返し利用しています. この風景は,今昔の感に堪えない,とも云えますし,都市機能としては何ら変わっていない,とも云えます.




箱崎から三ツ俣方面を望む.繰り返しになりますが,昔は首都高速の下が水面で,舟が行き交っていたと想像すべし.




この100 mくらい先が三ツ俣ではないかと思われます.




首都高速の下が川で,こちら側は中洲です.見えている神社は中洲金刀比羅宮. 中洲は江戸時代に一旦埋め立てられたが,また取り壊され,明治になって再度埋め立てられ,少々複雑な歴史があるようです[7]




江戸時代に新大橋が掛かっていたと思われる場所.暗いイメージで「橋のたもと」と云ったときの雰囲気が少しあります.




現在の新大橋から見た隅田川下流側.江戸時代の新大橋はピンク色の広告のあたりにあったと考えられます. 橋の上に数分も佇んでいれば今も舟が通るのが見られます.




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@720mamoru


参考文献


筆者は本来写真愛好者です.上に掲載した写真を
Nikon Image Space
にも掲載しました.フルスクリーン・スライドショー等の表示ができます.是非ご覧下さい.


使用した機材
カメラ:Nikon Df
レンズ:Nippon Kogaku PC-NIKKOR 35mm F3.5


最終更新:2018.02.20