鬼平21世紀江戸市中見廻り写真


第8回 麻布

鬼平犯科帳「麻布ねずみ坂」や「麻布一本松」の舞台を訪ねます. 地下鉄六本木一丁目駅から,鼠坂を目指して歩き始め,まっすぐ行合坂を下れば良いのですが,最初から脇道に逸れて,左に曲がって落合坂を下ります.
 六本木一丁目駅上のビルはどこの国かもうわからないグローバル標準の商業施設でしたが,歩いて5分とたたぬうちに昭和の日本の風景になりました.右側の住宅は東京タワーが建った昭和30年代の雰囲気を残していると思います.




電線が東京タワーに絡みついた,こういう風景は私は好きです.




右に折れて,三年坂を上り,途中でアークヒルズの方角を望む.見下ろしている谷間を我善坊(がぜんぼう)谷と呼ぶそうですが[1],この地区には昭和の古い建物が残っているようです.




三年坂の途中からもう1カット.高層ビルの向きが揃っていないのは複雑な地形のせいでしょうか.




さて,麻布鼠坂です.坂の上側の入り口. 鬼平犯科帳「麻布ねずみ坂」に登場する指圧の名人中村宗仙の住居がここに設定されています. 平蔵配下の同心山田市太郎が夕暮れに宗仙宅を見張るシーンがあります. 写真の中央にこんもりとした林が遠望されますが,都心でこんな風景があることは私にとっては新鮮な発見です.



鬼平犯科帳「麻布一本松」では,平蔵が配下の同心木村忠吾を伴って鼠坂を下る途中,三人の浪人に坂の上と下から挟み撃ちで襲われるシーンがあります.

 上の写真の坂を下ると,いったん平らになりますが,もう一段の下り坂が見えてきます. 著名な坂にしてはすごく狭い道です. 「麻布一本松」では襲撃の翌日,雨上がりに,平蔵が吾妻下駄を履いて鼠坂に再び現れるシーンがありますが, 舗装されていない状態で,雨の後,下駄で登り降りするのは大変な難儀だったと思われます.雪駄や草履では駄目で,下駄を,しかも足が滑りにくい吾妻下駄を履いて行ったということなのでしょうけど.


鼠しか通れない細長い坂というのが名前の由来で,昭和50年代に拡幅工事がなされたそうです[2].上の写真の細い所は拡幅できずに残っているのだと私は勝手に想像しています.

 鬼平犯科帳「麻布一本松」と「助太刀」に剣客市口又十郎が登場しますが,市口は麻布暗闇坂下に小さな剣術道場を構えていました. 市口は独身で,平蔵が最初に目にしたときには,下帯一つで飯を炊き汁を煮て夕餉に取りかかろうとしていました. そんな庶民的な生活が,現代の麻布暗闇坂下にもありました.周囲はお洒落な麻布十番商店街です.




市口道場は暗闇坂下の竹薮の中に設定されています.現在の暗闇坂下にもほんの少しですが木が生い茂った場所があります.




昔は坂を下から見て右手の崖から木々が覆い被さるように茂っていて昼でも暗かったのが名前の由来だそうです[3]. 現在では坂下に少し薄暗い所ができています.




暗闇坂を上りきると麻布一本松[4]があります.江戸時代はここに茶店がありました. 木村忠吾は,鼠坂での襲撃の前日に,市中見廻りの途中この茶店で休息したときに,好みのタイプの見知らぬ女から誘いを受けて有頂天になっていたのでした.


左側の,上階が太くなっている高層マンションは,松の木の形を模倣しているものと私は勝手に解釈しています.

 茶店で女に誘われる4日前に,木村忠吾は市中見廻りで一本松を通り,そのときに見知らぬ浪人と他愛ない喧嘩をして,これが「麻布一本松」のストーリーの発端となります.その日の忠吾は,現代の地名で云うと,大黒坂を上り,一本松を通過後,一本松坂を下り,仙台坂上の交差点へ出て,南部坂を下り広尾へ出た,という記述があります.その方向へ歩きます.
 仙台坂上で,交通量の多い道を避け,脇道へ入り天真寺の敷地内の細道に迷い込みました.




天真寺鐘楼.南麻布のこの辺は都会と云うのとは少し違い,郊外の雰囲気を残しているような気がします.




南部坂上で左側を見るとドイツ大使館の木立が見えます.


南部坂を下り,私は広尾駅から地下鉄に乗って帰宅しました.「麻布一本松」で喧嘩の後の木村忠吾は広尾から目黒の方へ行ったことになっており,その後も歩いて清水門外まで帰った筈ですから,よほどの健脚だったと思います.

目次へ戻る

@720mamoru


参考文献


筆者は本来写真愛好者です.上に掲載した写真を
Nikon Image Space
にも掲載しました.フルスクリーン・スライドショー等の表示ができます.是非ご覧下さい.


使用した機材
カメラ:Nikon Df
レンズ:Nippon Kougaku PC-NIKKOR 35mm F3.5


最終更新:2018.02.12